テーマ「べんきょう」
日時:2018.8.29(WED) 14:00~16:00
場所:野田市北コミュニティ会館 第1集会室
参加者:低学年4人、高学年5人
ファシリテータ:つむぎの森*胡糸(こいと)、哲学な野田*常盤
場所:野田市北コミュニティ会館 第1集会室
参加者:低学年4人、高学年5人
ファシリテータ:つむぎの森*胡糸(こいと)、哲学な野田*常盤
はじめに、胡糸による、心と身体をほぐす、アイスブレイク(表現教育)を30分程度を行なった後、低学年、高学年にわかれ、テーマ「べんきょう」についての哲学対話をスタートさせた。
アイスブレイクの様子 |
【哲学対話(低学年)】 ファシリテータ:胡糸
小1の女子以外、小3男子3人は2回め。
前回は、レジャーシートに座って行ったので、リラックスしている感じだったが、今回は椅子だったからか、導入時、少し緊張が身体に残っているように見えた。
夏休みが終わる直前の時期で、宿題に追われていた子どもたちにとって「勉強」=「宿題」の色は濃かったが、タイムリーな感覚もあったのか、発言は活発。彼らにとっての「勉強」がどのようなものか、それぞれに考えを巡らせ、また刺激しあって考える、良い1時間弱の対話となった。
「勉強」を何と考えるか、捉えるか。
「勉強は学校ですること、宿題もある」との意見が出てきて、対話がスタート。全員が「勉強は大事だ」という考えで一致するも、「勉強」を具体的に考えてみると、それぞれの捉えているもの・事が微妙に異なっていることが明らかになっていく。
例えば、身体を使う部位の違いで勉強か勉強でないかの違いがある。手を使って机に座ってやるのが勉強。いや、体育や音楽も勉強だろ、みたいなことだ。
それ以外に、宿題になるかならないか、とか、知らないことを知ることができればすべて勉強だ、など。「学校はあってもなくてもいい」という意見には、
勉強を教えてもらうところが学校、勉強は一人でできるから学校はいらない、といった理由だった。
彼らは、勉強=学校で、学校にある教科から「勉強」を捉える視点が強いようだった。
そんな中、「縄文時代に火をおこすのを発見したのは、勉強か否か」といった話が出てくる。発見やひらめきと勉強の違いは?、人に伝える、教えるようになったら勉強だ、など、それぞれに、ひとの考えを聞いて、より考えを深めていることが感じられた。
彼らは、自分の経験を通して感じている考えを、しっかり自分の言葉として発言していて、非常に豊かな「勉強」を巡る対話探求の時間となった。
と同時に、現代の「学校」という環境がもたらしている「勉強」に対する彼らの認識を垣間見て、「学校」における「勉強」とはこのままでいいのか、「学校」はどんな存在であるものなのか、個人的には深く考えさせられた。
【哲学対話(高学年)】 ファシリテータ:常盤
勉強といえば、学校の教科や夏休みの宿題、習い事が主にあがる中、人間関係や哲学、PCの扱い方や避難訓練などもあげられた。
大切なべんきょうは、将来に役立つべんきょうや、災害時にも生き抜く方法、と。どんなべんきょうが役立つのか、学校の勉強は役に立つのか、との問いには、役に立たない、役に立たない、それぞれに様々な意見を出してくれた。
夏休みの宿題については、みんな「きらい」と言いつつも、必要か、必要でないかと聞かれると、「何が」「どこまで」必要かは違うながらも、宿題の大切さを個々に力説してくれたのが印象的だった。
災害の影響、AI・PCの発達の影響は子どもたちの「べんきょう」への考え方にも大きく影響している様子が見られた。それぞれ、べんきょうがどう役に立つのか、大切なことはなにか、イメージが具体的にあるような、まだまだぼんやりしているような印象だったが、それでもきちんと考えて意見を出してくれていた。
【振り返り:オヤツタイム】
低学年・高学年を交えてお菓子を食べながら、お互いの対話をシェア。
文責:哲学な野田*常盤
(哲学対話低学年チームの部分のみ、つむぎの森*胡糸)
(哲学対話低学年チームの部分のみ、つむぎの森*胡糸)
**今回の対話は、「しんぶん赤旗」2018年9月15日で紹介されました**
https://tetugakunanoda.blogspot.com/2018/09/blog-post_27.html